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Thus spoke gentle machine

4.Thus spoke gentle machine

ツァラトストゥラとはゾロアスターのことで、ゾロアスターとは古代ペルシアで興ったゾロアスター教の宗祖です。その他色々な呼び方がありますが、ゾロアスター教は善悪二元論を主軸とした教義を持つ宗教であると知られています。

さて、何故突然この話をしたかというと、この”Thus spoke gentle machine”というタイトルはドイツの哲学者ニーチェの著書「ツァラトストゥラはかく語りき」の英語表記”Thus spoke Zarathustra”より取っているからに他なりません。ちなみに、リヒャルト・シュトラウスによる同名の交響詩があります。

(ピンとこない皆さんも一度耳にすれば「ああ、これか」と思われるでしょう)、これも同書の影響を受け作曲されたものですが、今回はあまり関係がないのでこれ以上は触れないことにします。

「ツァラトストゥラはかく語りき」でニーチェは、このツァラトゥストラ(どうぞ口に出してみてください)ないしゾロアスターという人物を主人公として置き、所謂哲学の本というより物語として読めるように書いていて、解釈の多くは読者に委ねています。

読者はツァラトゥストラ(言いづらいですね)の語りや物語を通じて作者の思想を読み取っていくのです。 では、”…Zarathustra”の部分に入った”gentle machine”とは何なのかという疑問を皆さんはお持ちかと思います。 私はこの”gentle machine”を日本語で「やさしい機械」と呼んでいます。

つまり…人ではないということです。無論、それだけではご納得いただけないと思いますが、とりあえず今はこれ以上の説明はさておき先に進むとします。踏まえてタイトルを訳すと「やさしい機械はかく語りき」とすることができます。これについてはご納得いただくのに問題はないでしょう。

(皆さん:ほう…では「やさしい機械」は何を語ったのですか?)ごもっともです。この解釈について少し解説を試みることにします。

少しだけ音楽的な部分から考えてみます。この曲のイントロはFmから始まりますが、調がはっきりとは確定せず怪しい雰囲気を醸しています。

寓話の語り始めといったイメージです。昔々…(お伽話や昔話を聞くとき、その中に奇怪さや怖いもの見たさを感じませんか?)。以後、このイントロの構成が再び出現することはありません。序曲のような役割を担っています。

その後の主題ではニ長調になり、これはイントロとは変わってわかりやすい進行を持っています。先のイントロが語り始めだとすると、話の本題に入ったと言えるでしょう。是非ご一緒に想像してみてください。小鳥のさえずりのようなメロトロンと、遠くで鳴るオルガンによる優しい陽射しから穏やかな語り口を感じられるかもしれません。

メロディーが展開されると、時折不安を織り交ぜながら少しずつ上昇していき、話が核心に近づいた時鳥たちは声色を変え、語りがひと段落した時には遠く上空の点になってしまいました。 歌のメロディーが終わると、入れ替わりにシンセサイザーのユニークなソロが始まります。少し滑稽さがありますね。

パーカッションは暑い国のリズムを感じます。ただ、シンセサイザーがひと盛り上がりを見せた後、このリズムはがらっと変わってしまいました。この部分はつなぎ目が判りづらいですが、今までポリリズムで鳴っていたスローなテンポに完全移行し、若干のカオスに飲まれながら次の展開へ。

相変わらず愉快なソロは鳴ったままですが、この後に転調することになります。

転調先はB♭m7。テンポは先ほど移行してからそのままですが、先の展開がカオスだった分、十分な意外性があります。短調なので、主題とは変わり暗い印象を持たれるでしょう。そして、今までの語り部は不在のようです。

代わりに誰かが話をしています。この展開の最後には長調へ転じますが、それでもどうやら苦悩が感じられます。

その後は長調を保ったまま展開します。ここで再びリズムが歪み、しかしすぐに判りやすい形へ解消します。この部分は調性もコードも基本的は変化しません。

さて、ここで一つ確認をしましょう。語り部がいるということは当然聞き手がいるということです。曲の鑑賞者もその内ですが、実はこの物語の中にも聞き手がいました。曲の一番初めに”Lady, It’s a story for…”という詩があります(今更になって歌詞を持ち出したことをお許しいただきたい)。

この”Lady”と呼ばれている女性が皆さんともう一人の聞き手です。

話を少し「ツァラトゥストラはかく語りき」に戻しましょう。物語はだいたい次の通りです。 ツァラトゥストラは十年ものあいだ山に篭り、ついに叡智を獲得しました。善悪の彼岸に立った「超人」になったのです。

そしてその知恵を人間にプレゼントするために下山を決意します。太陽が沈むように、自らもまた没落するのだとツァラトゥストラは考えました。孤独に耐え見出した知恵をわざわざ下界の人間へ授けようとしたのです。健気ですね。私はここに人間愛を感じます。

その後ツァラトゥストラはしかし人間たちとのふれあいに翻弄されながら、何度も山を登ったり下りたりすることになります…。 ニーチェはこの著書で、ツァラトゥストラが繰り返し山を下りる様子を用いながら「永劫回帰」を提唱しています。これは始まりも終わりもなく、今この瞬間は永劫的にまた繰り返されるといったような思想です。つまりは何をやっても同じ過去や未来が繰り返されるのであれば、万物は平等に無意味であると捉えられる…これは大変な虚無感に襲われそうになりますが、それを受け入れた先にこそ「超人」の道はあるとニーチェは説きます。

運命愛を持つこと、すなわち(永劫回帰の)運命を受け入れ、それを肯定するということ。そして無から創造する者こそ超人であると。生への強い肯定があってこそ、これは実現されるでしょう。

“Thus spoke gentle machine”のおとぎ話に戻ります。永劫回帰とは一回生の連続であるようでした。

ちょうど同じ曲を繰り返し再生するような具合で。では、一体誰が再生しているのでしょうか。また、一体誰が聴いているのでしょうか。先の話から考えるに、おそらく人ではないものでしょう。そして、生を持たないもの。それでも永劫回帰を手伝い、また静かに見守る役目を引き受けています。

やさしいですね。さて、”gentle machine”の正体が分かったかと思います。 “gentle machine”は”Lady”に丁寧に語ったでしょう、同じ曲を再生することについて。またそれを鑑賞することについて。しかし、なぜそれを語ったのか?環の中にいる生を持つ人間である女性にこれを語るのは、一見無駄な行為に思えます。これは”gentle machine”の気まぐれだったのでしょうか。再生者として創造され、しかし創造することはないこの機械は、ツァラトゥストラと同じように没落することを望んだのでしょうか。…あるいは、何か他の思惑があるのかもしれませんね。

それでは、ここまで読み進めてくださった酔狂な皆さんの楽しみとして、この問いは残しておくことにします。(「ニーチェを読みふけるようになったら危ない」と耳にすることがあります。なるほど確かに、その思想には危険な香りがします。この曲は「ツァラトゥストラはかく語りき」を下敷きにした寓話の一側面として作曲しましたが、私は同書も同じように、実践的な哲学ではなく物語として受け取りました。それが良かったのだと思います。つまり何が言いたいかというと、あまり白い目で見ずに、できれば「やさしい」目で見ていただきたいということです。)

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