RRR Tan-Tra Initiation KIKO eTo

伝統的タントラが教えてくれる貴方の真実

RRR Tan-Tra Initiation

いつから自分を信頼しなくなったのか…

ラブスタイル類型論

ジョン.アラン.リ-は『the colors of love』(1973)においてラブスタイル類型論を提唱し恋愛態度を6分類しています。

  • エロス "Eros" 情熱的な愛
  • ルダス"Ludau" 遊びの愛
  • ストルゲ"Strge" 友愛的な愛
  • プラグマ"Pragma" 現実的な愛
  • アガペ"Agape" 無償の愛
  • マニア"Mania" 狂愛的な愛

①エロス "Eros"情熱的な愛 passionate,erotic 運命を感じやすく直観に依拠した恋愛をする。強い身体的魅力、強い情動、容姿の好み、関係の結びつきがエロスを定義するときの中心核となる。

②ルダス"Ludau"遊びの愛 game-playing,uncomitted恋愛をゲームの駆け引きのように楽しみ、相手を次々に取り換えていこうとする。相手に深く関わらず、複数の相手とも付き合える。

③ストルゲ"Strge"友情の愛 friendship 平穏・親和的な愛情。長い時間をかけて愛情を育む。友情や仲間意識に近い感覚を持つ。友達関係からの進展が典型例で、パートナーに対して、情熱的な愛情や独占欲・嫉妬はあまり感じない。

④プラグマ"Pragma"実用的な愛practical,calculating 計算高い。恋愛を自分の目的達成の手段と考えている。社会的高い地位に就きたいなどの目的にそって恋愛相手を選ぼうとする。

⑤アガペ"Agape"愛他的な愛altruistic,giving 自己犠牲的で相手に尽くすタイプの恋愛をする。相手の利益を第一に考え、自らの犠牲を厭わない。見返りを求めない献身的な愛。リー(1973年)は調査した回答者のなかにアガペー型を見つけることができなかったと報告している。

⑥マニア"Mania"偏執狂的な愛obsessional 情熱的で相手に強迫的にのめり込む。独占欲が強く嫉妬深い。相手の愛情を何度でも確かめたがる「病的な愛」"symptom"loveと呼ぶ研究者もいる。

John Alan Lee (August 24, 1933 - December 5, 2013)

私にとってタントラとは安らぎと美意識の組合せ。どちらかが欠けてもダメです。KIKO ETO

タントラって怪しいの?!

タントラ。聞いたことはあってもよく知らないという人は多いし怪しいイメージもあるかも知れない。私も自分には無関係なものだと思っていたし、単にエロい!という印象があった。ところが、あるとき海外のタントラワークショップなるものを見る機会が訪れてしまった。そこで見たものは「愛」を謳ってはいたが、日本の法律ではわいせつな行為として扱われる可能性が高く、我々の日常とはあまりにもかけ離れ過ぎていた。ただ、意外にも軽蔑することもなく観察していた。やがて疑問点が浮かんだ。その疑問点を正直に言わせてもらうと二つ《どうしてこうまでしなくてはならないのだろうか》《この先には何があるのか》私は物心ついた頃から、聞いただけ見ただけのことを鵜呑みにしない人間で出来る限り確かな情報を集めたいという実に可愛くない性質を持っているため、帰国後もこれらを深く考えないわけにはいかなかった。

タントラと検索してみるとわかることだが、女性なら飛びつきたくなるキーワード「魅力的な女性になる」「女の幸せを楽しむ」「美しさを実感する」や、男性向けには「夫婦のマンネリにはこれだ」「女性を喜ばせるには」とあり、中には刺激の強い情報も少なくない。これらが長い長いインドの歴史の中でちゃんと伝統的に伝えられてきたタントラという教えなのかと考えるとどうしても違和感があった。簡単に得れる情報の多くはセクシャリティが強くアピールされていることが多く、タントラのワークショップの決まり文句と思われる「自分を開放しましょう」は普段ではやらないようなダンスをさせる。「もっと愛を表現しましょう」がドラマのような表現をさせ「あるがままの自分」が幼児性を切り離せないわがままな自分を許す(と思ってしまう)。その空間.時間だけでは許される“現実とはかけ離れた世界”をあえて作る儀式が意味することとは何なのだろう。とりあえず、私はタントラについて人の知性が感じられないものは参考にすることを控えた。それらを全て否定しているのではなく、私は選ばないという感じだった。大きな本屋へ足を運んでみたがやはり情報が少ない。ヨガの各先生がオリジナリティを加え商品化した本がズラリと並んでいる。では、古い文献を探して図書館へ行こうと思いついた。これが何気に大正解だった。ハタヨガ、ラジャヨガ、バクティヨガ、カルマヨガなどいろいろあるようだ。それらがどのようにして分かれ、いつ頃タントラという経典が誕生したのか…など、ついつい深みにはまってしまった。図書館が友達になり結果的には、ヨガそのものの起源、流れ、時代背景、さらには人類の宗教史をも探るように導かれるという壮大な取り組みとなってしまった。

この日はシヴァラトリだった

ここからは当時の私の単なる直感と想像で生んだ仮説である。→→→→タントラとはある限定された人々にとっての経典であって、スピリチュアリティがあるレベルに達していない状態ではその核心を理解できるようなものではなかった。その教えの先にあるものとは、言葉で伝授することが難しいものであったのではないか。現実的な世界を生きる我と、内側に住む我とが都合をつけるところまでは、人々は鍛錬を積むことや生活を円滑にする過程で成長し目を開けていても達成できたのかもしれない。しかし、我とも呼べないないような宇宙のかけらであり宇宙でもある我との都合はどうつければよいのかを伝えようとしたとき、いったいどうしたのだろう。そういうレベルのことを我なりに挑戦して人がひとつひとつグループを作っていった。すると今と昔、同じようなことが起きているのかもしれない。以上、私の単なる仮説。

自分を導いている主

人には、自分だけが聞こえる閃光のような言葉を受け取ることが誰にでもあるのだろうと私は思っている。それをインスピレーション.閃き.直感.お告げ.預言と呼ぶ人もいるだろう。その特徴は、①永続的に採用できるものである。②耳で聞く言葉とはどこか違う。③景色.風.香.他人の口などものを介してくる場合がある。④進歩という結果を生む⑤その内容が自分の意に反していたり知り得ない内容だとしても何故か絶対的であるのが明らかな雰囲気と圧倒的な透明感がある。よって聞いた人は自分の意よりもその言葉の意味を採用することになる。

私が過去に聞いた自分を導く言葉の中のひとつに「その人を恨んではいけないよ」というものがあった。この言葉を二度聞いている。一度目は家の二階で寝ているうちに泥棒が入ったときである。私はその言葉に対して「そうだな命が救われただけでよかったのだな。」と救われたことに感謝することで合点した。二度目は親族の裏切(私からすると)を知らされたとき私から怒りが溢れ出しそうな瞬間にその言葉を聞いた。「え?そうなの?!そうなのか...。」とりあえずは言葉を受け止めたが、どうしてなのかは合点出来ずにいた。私は友人に相談し「悪いことはたとえ身内の方でも裁かなくちゃ!」「良い子になる必要はない!」という一見勇敢で私の味方のような返答をもらったのだが正直なところ合点しなかった。親身になっていただいたのに申し訳ない。数日後ふとした瞬間に【その人を恨んではいけないよ】の言葉の意図に私は深く深く、感謝し合点た。車を右折する瞬間というまさにふとした瞬間だった。その日は秋晴れの暖かい日だったのを今でも鮮明に覚えている。もし私が「その人を恨んじゃいけないよ」を無視して戦っていたら、恨んだり怒りのほうを採用していたら、青空の美しさも光の暖かさも気がつかないほどに私という人間は汚れてしまっていただろう。ハンドルを右にきりアクセルを踏んだか踏まないかの瞬間にそう思ったのだ。曲がり切った後しばらくの坂道をゆっくりと直進しながら、あぁそうかそうか…深い感謝の気持ちの中に私はいた。その時間を境に私の選択には大きな変化が起き続けていった。「相手を恨んじゃいけないよ」は、災いの最中には理解できなくても、ひとまずそう努めることを私はお勧めする。渋々でもそれを採用した結果、自分を助けたことになっていたのだと知る機会はちゃんと訪れるのだ。

バリ島でデトックスが始まった私

世界中に宗教やスピリチュアルグループが存在する。それぞれが主(としている)からメッセージを受け取ることにフォーカスするグループだけを数えてみても、きりがないほどある。それほど人々は「自分を導く主からの言葉」が必要で惹かれるのだ。閃光のように現れてくれた言葉の主や神と近くで生きていくことが可能ならば私たちはその存在とどのくらい離れているのだろうか。そもそも何なのだろうか。タントラはそれを知る鍵となる。

縦と横と.もうひとつ。

ヨガを学んだりアサナシリーズを習得しようと練習をするうちに、ほとんどの人がチャクラという言葉を耳にする。チャクラは人体の尾骶骨あたりから頭に沿って7つある力の中枢フォースセンターとされている。それらは私たちの生命活動で極めて重要であり、それぞれ特徴があるという。チャクラにはハスの花が象徴としてあり、鍛錬を重ねていくとその花が咲いて高次のエネルギーと繋がるという。紙に人の形と各チャクラを書いてみると、縦に連なっている。霊性開花というと頭のもっと上に上に乗っていくようなそんなイメージがあるのはこのようにチャクラを縦に認識すれば当然といえば当然なのだが、チャクラは「物資ではない」という点と「働き」であることから、実際に感じてチャクラというものと共に生きることがまずは必要なことなのかも知れない。

ヨガを学びチャクラジャーニーを進めていくとやがて「繋がり」というキーワードが浮かんでくる。では、繋がりとは実際には何と何をつなぐことをさすのだろう。「家族、社会はもちろん地球、自分の魂との繋がり。」ヨガでなくとも、どんな方向から学んだとしても人生の旅路で、皆がここへたどり着く。

イギリス.カンタベリー 寄り添う落ち葉

OSHO Vigyan Bhairav Tantraより

脊柱の中、ちょうどその真ん中に、銀色の紐が一本通っている。ごく繊細な神経だ。それは生理学的な意味での神経ではない。手術して見つけようとしても無駄だ。見つからない。でも深い瞑想に入ると、それは見える。それはそこにある。非物質的なものだ。それはエネルギーであって物資ではない。そして実際、脊柱の中にあるこの紐こそ、あなたの生命だ。まず自分の脊柱を視覚化する。それから真ん中を貫いて走る銀色の糸を視覚化する。始めのうち、それは想像のように思えるだろう。でも少しづつその想像は消えてゆき、マインドはその脊柱に焦点を定めてゆく。するときっと自分自身の脊柱が見えるだろう。その内側の核が見えたとき、突然、内側に光の爆発を感じるだろう。

規則から稽古へ。

自分がとる行動を「やらねばならない」と規則のようにしてしまうことは多い。その理由の一つは「私とあなた」「善と悪」「光と闇」二元性があるからではないだろうか。タントラでは行動に対し「やらねばならない」は無い。稽古は人生の一部となる。自分を解放し、回帰し、宇宙と繋がっていく。だからタントラは「完全な自分」「完全な宇宙」という意識から始まる道であり、タントラの扉を開き進もうと決めた人は二元性を超え物質的な欲望も超える段階へと導かれている。

イギリス.セブンシスターズ どこまでも続く道

誠実に生きることを実践する

“完璧であろう”とすること自体、自分に誠実とはいえない。タントリカは自分にも周りにも誠実に生きることを実践するという。自分の正直な気持ちを偽らず誠実でいるためには自分に対する不信感、自己否定を手放す必要があり、こうありたいと願う自分や、自分を正当化するのも捨てて今の自分の性格や体、個性を受け入れる。つまり「あるがまま」を受け入れて生きる。この「あるがまま」はタントラという扉の入口に書いてある表札のようである。

タントラのゴールは“究極の真実”。それは区別なく存在し発生することも消滅することもないというのだ。では、今の自分は真実の自分ではないのだろうか?真の体験とはいったい何なのだろうか?タントラは私たちが生で体験する真実は、目の前の美しさや色、感動を“純粋”に体験することだといっている。魔法は起こりえない“現実の生”なのだ。人生の苦い出来事にも、あるがままに直面するとき、私たちは何かを期待することもなく生き、生命の美しさを見る。純粋な自分、真の体験は、私たちが砂浜の砂ひと粒、桜一輪のようになれるかどうかにかかっているのかもしれない。

片瀬江ノ島から微かに見える富士山

伝統的タントラを学ぶスタディグループ「RRR.Tan-Tra Initiation」ではスピリチュアリティを一緒に深める仲間を募集しています。不定期開催ですがおおよそ3ヵ月に1回のぺースで勉強会が行われます。毎回おすすめの参考書を中心に進めていきます。私の修行体験をシェアする時間とメンバーの皆さんからの体験談のシェアタイムもあり完全な座学です。誰かが誰かに教えるというスタイルではありません。ご質問やお申込はフェイスブックメッセンジャーからお寄せください。「タントラスタディグループ」についてと添えていただけるとスムーズです。私たちの詳しい活動はRRR(Runway Runaway R&D)↓をご覧ください。

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