Sympathy と Empathy

医療者の日常に、患者との面接は不可欠な問題であり、したがってその効果を左右する要素は重大な関心事である。その一つとしてラポールの形成について考えるうちに、Sympathy と Empathy の言葉の概念の理解について吟味が必要になった。

要約

Sympathy は一般に聞き慣れた言葉、同情です。あるいはコンサイスにあるように同情、あわれみ、同感、共鳴、賛成などとごく一般的に理解されている

Empathy とは、相手の情緒的感情と同じ感情は持たず、しかし相手はどのように感じているかはありありと摑めている。

Sympathy は相手の感情と自分の感情が一緒になる、Empathy は客観的に摑めている

同情 sympathy とは、共に 同じように 共鳴する。

だから悲しさが伝染し、貰い泣きをし、こちらも悲しみ、こちらも涙を流すことをいう。

共感 Empathy は違っており、これはあなたのことであり、わたしのことではないという、はっきり割り切った一線が、自他の間に明確に引かれている。そこに厳しさと同時に一種の涼しさとか「さわやかさ」といってよいような傾向が生まれる。

アダムスミス「国富論」、ルソー「百科全書」、大段智亮「医療心理学」、リップス「心理学」、その他にも様々な文献を漁り、その違いを明確化するために偽装会話形式で論争が進んでいく。

ラポールをつくるためには、Empathy の方が大切で、この能力がないと患者のラポールを形成する妨げになる。なぜなら Empathy も Sympathy も相手に関心を抱いていることは変わりがない。しかし Empaty は客観的な視野で評価する複眼をもっている……

まとめとして、訳語を理解する困難さを語っている。

どうも訳語というのはむずかしい。伝統と文化の違う両者を継ぐ言葉は、よほど吟味する必要がある。言葉だけでなく、コミュニケーションのあらゆる手段、ノンバーバルなコミュニケーションについても全然反対の意味をもつ場合すらある。

人の出会いのなかでお互いの考えの通じ合いは、その出会いがもつ多様な発展の可能性のなかでお互いの立場を変えて考えてみたぐらいでは、その相手のもつ伝統と文化の違いがあれば、それが国が隔り、民族の異なりとまでなれば、全く異なる結果が生まれてくる

ことは、比較人類学として学ぶまでもない。

森嶋通夫さんの『イギリスと日本』、木村治美さんの『黄昏のロンドンから』、犬養道子さんの『今日は明日の前の日』など、一連の異国ものブームの発端ともいえるイザヤ・ベンダサンの『日本人とユダヤ人』,ルース・ベネディクトの『菊と刀』、M・トケイヤーの『日本人は死んだ』など多くの外国人の日本人観、日本社会の批判、日本人による日本人のための反省、土居健郎さんの『甘えの構造』等々文字どおり枚挙にいとまがないほどであるが、それぞれに例をあげ述べられていることが示すように、よほど広範囲な確実な知識のうえに立たなければたいへんなまちがいをおかすおそれが多いことであろう。

生物学的な基盤では、普遍的な医学であっても医療としての取り上げ方については、その運び方についても同様なことが細心の注意を必要とする所以であろうと思うし、われわれ日常の臨床の際はもちろん宗教者、教育者などの立場にあって、それが少なくとも指導

的な意味をもつ出合いであり、面接であるならば、特殊な前提のある出合いであることのために、親兄弟のような身近な、同一利害をもつ家人、友人などと異なり、同じ看護者の場合であっても、医療者としての立場は Empaty 的でなければならないこともまた理解されるであろう.

歯界展望 第51巻第3号 昭和53年3月

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